Diario
2002年9月30日
荷造りの終えたスーツケースを持ち、私は朝もやの中に出た。
妹(紀子)の笑顔が目に入った。タクシーをつかまえて私を待っててくれていた。
日本の実家、福岡へ帰ってくるたび、家族はいつも私をあたたかく迎えてくれた。
あっという間の一ヵ月半だった。
8月の中旬に、大阪・福岡ブルーノートでフラメンコ公演をした時は、私のマネージャーがわりになっていろいろ世話をしてくれた。
そしてメンバーであるスペイン人アーティスト達の日本での滞在が快適であるように、いつも気をつかってくれた。毎晩、ステージの直前に彼女が楽屋裏に顔を出してくれるたびに、ホッとさせられたものだ。
「お姉ちゃん、こっちよ。」紀子の呼び声に答えるように私も微笑みかけた。
タクシーのところまで近づいていく間、私の心には日本での彼女との思い出が浮かんでは消えた。
私は耐えられないような痛みを喉に感じた。今にも涙が流れそうな気がして紀子へ話し掛けることも難しかった。バセドゥ氏眼症手術の直後で感傷的になっていたのだろうか。
・空港で一緒に朝食でもと思ったが、チェックインに時間がかかった。
機内へ入るまで、20分しかなかった。
「一緒にコーヒーを飲む時間もなくなってしまったけれど、紀子、このたびは色々ありがとう。とても感謝している。」
と、私は言った。彼女は、特有のおっとりとした笑い顔で「いいのよ。私もとっても楽しかったんだから・・・。スペインのメンバー達によろしくいってね。」
栗のようにまんまるい彼女の目はきらきらと輝き、スペイン人アーティスト達と知り合えたことがとっても楽しかったと言っていた。
「それからお姉ちゃん、目の具合はどう?退院したばっかりなのに、もうスペインへ帰ってしまうなんてすごく心配よぉ・・・何か変わったことがあったらすぐに岡山の田淵先生に連絡しないとダメよ!」
・九月に入ってすぐ、岡山県の川崎医科大学病院で、目の手術を受けた。
5時間にも及ぶ、複雑な手術だった。生まれて初めて全身麻酔というものを体験した。
スペインから川崎医科大学病院の神経眼科の田淵先生のことを調べ出し、お手紙を送って、目の症状を説明した。
手紙を送った二週間後に速達国際郵便でスペインのコルドバの我家に田淵先生からのお手紙が届いた時はとても感激して、うれしくて思わず大声で叫んでしまった。
救われた思いだった。
手紙では手術の内容が説明されていた。二年半前に発病したバセドゥ氏の眼症手術。
今日は、その手術後、二週間の入院を終えてからすぐのスペイン行きの日だった。
セキュリティーチェックを受けるための列はどんどん縮まっていった。
私の番になった。ここで妹ともしばらくお別れになってしまう。今度また会えるのはいつだろう。
もう一度、夜深しして何時間も紀子と語り合いたかった。
紀子の子供たち、大智と利紗が仲良くふざけながら保育園へ行く姿もしばらくは見れないのだ。
父と母と夜、大壕公園へウォーキングに行くこともしばらくはできないのだ。
「体に気をつけてね。色々大変だと思うけれど、自分を大切にして頑張ってね。」と私はいった。
「お姉ちゃんも・・・頑張って・・・。」
私は係りの人に急き立てられるかのように時計とベルトそして指にはめていた銀の指輪をはずしてかごに入れた。ひとさし指にはめていた大きな銀とコーカサイトの指輪は紀子がこのたび公演の後にプレゼントしてくれたものだった。
セキュリティーチェックを受け、機械から通ってきた自分の手荷物を受け取った。
私は再び、私の生まれ育った、そして私の家族たちが住む福岡をあとにする。
妹の顔が遠くに見えた。手を高く上げて、自分がいるところを私に示していた。私は最後に手を振ってそれ以上振り返りはしなかったが、私は妹がずっと手を振っているのを感じていた。22歳の時に初めてスペインへ渡って以来、ずっとスペインに住んでいる。日本に一時帰国するのもせいぜい年に一度・二週間程度だった。
しかしこのたびは一ヵ月半も日本に滞在できて、その分思い出も沢山できた。
日本を離れるのがとてもつらく感じられた。私の心には、このたびの日本での一ヵ月半の滞在の思い出が、浮かんでは消えた。
ブルーノートでのフラメンコ公演で、日本にこのたび初めて訪れた私の友人たち。フラメンコのアーティストたちでもある。
メンバーと過ごした大阪と福岡での日々のこと。
母と2人で母の里、広島へ三日間旅行したこと。
甥と姪と、はしゃいで遊んだこと。
退院した私に、父が腕をふるって作ってくれた野菜スープがとってもおいしかったこと。
糖尿病と宣言されて以来、毎日のウォーキングと厳しいダイエットを、根気よく続けている父の症状がよくなってきていることに、とても安心したこと。
福岡城址のお濠に咲いた蓮の花が美しかったこと。
手術後、上まぶたがなかなか動いてくれなくて、とても心配してしまったこと。
日本一といわれるすばらしい神経眼科の教授、田淵先生と出会えたこと・・・。
昨夜あまり眠れなかったせいか、トランジットをするロンドンのヒースロー空港へ到着するまでずぅっとうとうとしていた
息苦しくなってハッと目が覚めた。夢を見ていたらしい。コルドバの友人に一ヶ月半預けたままにしていた愛犬ルーシーの夢だった。
夢の中で、私がルーシーを迎えに行くと、すっかり元気を失くしていて、私の手の中でぐったりとしていた。そして体中にアレルギーで皮膚が赤くむらになっていた。
私は一ヵ月半もの間、友人にルーシーを預けたままにしてきた自分を責め、ルーシーの皮膚が本当に病気になってしまってもう取り返しのつかないことになってしまったような気がして、悲しみと苦痛が交じり合った。感情を夢の中で感じていたのだ。なんとも不快な夢だった。
時計を見ると約二時間ぐらいたっていた。
私はすぐに隣の座席にすわっていたオーストラリア人の女性の方を見た。本を読んでいた。彼女とは特別話しはしなかったが、入国手続きの用紙を彼女が床に落としたままにしていたのを拾い、見つけて渡してあげたとき国籍のところにオーストラリアと書いてあったのを覚えていた。
彼女は私がうとうとと眠っていたことも夢にうなされていたことにも気がついている様子は無かった。私はホッとした。ルーシーの夢のせいで、うなされて声を出して叫んだりしたのではないかと心配していたからだ。その心配は無いらしい。
たいてい私はとても印象強い夢ばかり見る。
ほとんど毎日のように見る。
とても現実的なのだ。
悲しい夢をみたときは泣きながら朝目がさめたり、楽しい夢を見たときは笑いながら目がさめて、その場合は1日とても楽しい気分でいられる。
でも夢の中の出来事と現実のはざまに置かれた自分をコントロールするのに困ってしまったりする。
夢とは非物質的世界で起こっている真実の出来事であると、ある哲学者がいっていたが、私のみたルーシーの悪い夢が現実に起こってほしくは無かった。
彼女は私の都合に振り回されながらもいつも私に忠実で100%私を受け入れてくれているからだ。
たまらなくルーシーを恋しく思った。
今すぐにでも彼女に会いたかった。
毎朝私のベッドの傍で私の目がさめるまでじっとすわって、私を見守っている彼女の顔が目に浮かんだ。
コルドバの駅に到着したら、ルーシーの待つ友人の家に直行しよう・・・。
ロンドンヒースロー到着まであと40分。
機内からのぞく外界は白い光につつまれた空のブルーと、限りなく広がる白いムースのような雲に覆われていた。
まぶしい光の世界だった。
なんて美しいのだろう。
この美しさは、ただそのためだけに存在していた。その存在の理由もなければ説明もする必要も無いように思えた。
ただそれ自身のために存在しているのだと思えたとき、不安や悲しみが消え去っていくのを感じた。
・ ヒースロー空港に到着して二時間がたっていた。
スドリード行きの搭乗手続きのサインをモニターテレビに見つけた。
ターミナル2の待合室はまるで真空カプセルの中にいるような感じだった。
待合室は色々な国々の人々で満員だったが、人々の会話が何一つはっきり耳に入ってこないのだ。
隣にいる人に迷惑をかけないようにひそひそと会話をしているのだろうか。
それとも自分たちの会話を隣の人に聞かれたくないのだろうか。
相手にまったく関心のないようなふりをしていながら、実は周りの人々に自分たちがどうみられているのか異常に気にしているような感じだった。突然、席を立って歩き出そうものなら、たちまちみんなの注目を浴びせられる様な気さえした。なんて、緊迫した雰囲気なのだろう。私はゆっくりと立ち上がってスペイン行きのゲートへ急いだ。
・ ゲートに着くとすでに機内へ搭乗している人々が見えた。
私も列に加わった。
何処の空港でもみかけることだが、はやく列に加わった者から機内へ案内されていった。
トランジッドの関係で一時間以上もゲートの前の席でまっている人々もいただろう。
お年寄りの中には歩き回って時間をつぶすよりも、ゲートの前に座ってまっているこをと好む者もいるだろう。
そういう人々が早いもの順で前方の列に並び、そしてあとから到着した人々がそのあとから機内へ入っていくことはごく当たり前のことである。
これは飛行機の搭乗に限って行われていることではない。
列を作るという習慣は全ての人々の対してある程度公平であり、簡単な方法ということから大昔から存在している。
言葉が違い文化が違う。
特に多国籍の人々が集まるようなところでは、なおさら必要になる。
しかし、日本では世界共通のはずの“行列作り”というものは存在しないのか。
一番に機内に登場しようとする30分前から列を作ったとしても実際最初に搭乗できるのは、ファーストクラス、又はビジネスクラスの人々なのである。
いわゆる空港会社に一番お金をたくさん払った人を優先に機内へ案内される訳である。
私は三年前より、日本へ年一度は帰国するようにしている。
三年前にトランジットのためにロンドンから成田へ向かう便の搭乗入り口で手荷物が多いため早めに機内へ入ろうと早くから列に並んでいたことがあった。
通常の行列を作る法則に従えば、6人目に機内へ搭乗できるはずだった。しかしゲートは開いたものの、グランドホステスさんの「まずはファーストクラス、そしてビジネスクラスのお客様からゲートへお入りください。」という案内に足止めをくらったことがあった。
そのときは、そのグランドホステスさんの言うことに素直にしたがったものの、納得できない、と感じた。
その日は夏休み最後の週で機内は満員といわれていた。
ゲート前にできていた行列も、とても長く、後ろのほうははっきりと列が見えないほどだった。
案内をしていたグランドホステスさんは、ご丁寧に列の後ろの方まで声をかけながら行列の中に混じっているかもしれないファーストクラスとビジネスクラスのお客様を探していた。
約15分、大多数のエコノミークラスの人々は、ファーストクラスとビジネスクラスの人々がそろうまで待たされることになった。
あんなに大勢の人々がいたにもかかわらず、不思議と誰一人文句をいって出て行く人はいなかった。
しかし、納得できない気持ちになったのは私だけではなかっただろう。
お客様は神様である。と考える日本では、お金を沢山払ったお客は、それを少なく払ったお客よりも大事に扱われ、その大事なお客様のためには、他の客をぞんざいに扱うというやり方は当然なのであろうか。
列の中にはイギリス人も何人か混じっていたが、グランドホステスさんの案内にみんな信じられないような顔をしていた。
私の列の先頭に並んでいた4人のイギリス人男性たちは私にグランドホステスが何を案内しているのかを確認した。
一応グランドホステスも英語でも一度案内したが、彼らにしてみれば信じられないような内容の案内に、もう一度私に聞いてみたかったのだろう。
その男性イギリス人4人は「郷に入れば郷に従え」の精神を大事にしたのだろうか。不服そうな顔をしながらもその独特な日本のやり方に従うことを決めたようだった。
・ 搭乗券を機械にとおしてゲートは入っていくのだが、機械の手前にグランドホステスさんが立っていた。
私が自分の搭乗券を機械に入れようとしたとき、彼女は手元から搭乗券を取った。
私は何かを確認したいのかと思ったので彼女に手渡したが、彼女はただ私の代わりに私の搭乗券を機械に入れてくれただけだった。
私は妙な感じを受けたという方が率直なところだった。
過剰とも思えるサービスだった。無意味なサービスに感じられた。
機械から出てきた残りの小さな券を私に手渡しながら「 いらっしゃいませ」 とニッコリされたが、微笑みを返す気にもなれなかった。
私の座席は非常出口の真横の足元が広い席だった。しかし私はその非常出口をみながら考えた。
もし飛行機に緊急事態が発生してここから出ないといけないような時、目の前に出口がありながら、ファーストクラスとビジネスクラスの人々の命の方がエコノミークラスの人々より大事にされることになるのか。
やはりこのお客様への機内搭乗案内の仕方は間違っているように思われる。
・ 無事入国審査と税関を通って荷物が出てくるのを待つだけだった。
夜の10:30分。予定通りマドリードに到着した。
ここからコルドバまでスペインの新幹線AVEに乗らなければならない。AVEの駅アトーチャまでタクシーで20分はかかる。最終便には間に合わない。
今夜はあらかじめ予約をしておいた空港の近くのホテルに泊まることにした。荷物が運ばれてくるベルトコンベアーの周りは自分の荷物が出てくるまでおしゃべりに花を咲かせているスペイン人たちでいっぱいだった。
久しぶりのスペイン語が心地よく耳に入ってきた。ホッとした安心感がわいた。
マドリードまでやっとたどり着いたことに満足した。
・ 私はスーツケースをとって出口へ歩いていった。
飛行場の正門玄関には何十台ものタクシーが三列づつになって順番に客を拾っていた。
思ったよりも早く自分の順番になった。運転手は40代ぐらいの男性だった。
手早く私のスーツケースを後ろの荷物入れに乗せた。
「とても近いんですけれど、NHホテルまでお願いします。」と私はいった。
「 わかりました。」いまが今日最後の稼ぎ時の時間のようだった。
いま並んでいるお客の行列が終わってしまう前にまた客を拾いにここへ戻ってきたい、とばかりにとても急いで手ぎわがよかった。
NHホテルはここから800mぐらいのところだったから2,3分でついてしまうところだった。
ところがまだ1分も立っていないのに料金のメーターがドンドン加算されていった。すでに7ユーロになっていた。
実際に運転手に渡す料金はメーターに表示されている料金のほかに深夜料金とタクシー乗り場の特別料金が加算され、さらにスーツケースの料金もとられるのですでにこの時点で10ユーロ以上は要求されることになる。
「メーターがちょっとおかしいのではないの?ホテルは近いんだから。いくらになるかは分かっているのよ。普通は5ユーロもかからないんだから。」
タクシーの運転手はすぐに喧嘩ごしで私に向かってきた。「こんな夜中まで働いてるのに5ユーロぐらいで人をのせる訳ないだろう。最低料金は20ユーロだ!」
かなり短期な性格のようだ。でも私も彼の言いなりになっているわけもいかない。
タクシーはほとんどホテルの正面入り口まで来ていた。
メーターは18ユーロになっていた。
「最低料金が20ユーロなんて始めて聞くわ。どうせ正規の料金ではないんでしょう。どうして発車する前に貴方のそのでたらめな希望料金をいわなかったんですか。20ユーロなんて絶対に払わないから。」
タクシーはホテルの正面玄関に到着したと思ったら急にアクセルを踏んでもうスピードで、もと来たハイウェイに戻って行った。
「 20ユーロ払わないならあんたを空港へ戻してやる!こんな夜中に女一人でタクシーに乗りやがって空港以外のところへこのまま連れて行くこともできるんだぞ!」
私は内心ぞっとした。この人がいうようにこのまま変なところへ連れて行かれる可能性もあるのだ。
「 じゃぁ10ユーロで手をうつわ。」
「 ダメだ。」
「 じゃあどうぞ。空港へ戻ってください。急いでませんから。貴方だってただでここまで往復するよりは10ユーロを稼いだ方がいいでしょう?あなたが空港に連れて行かないのなら今すぐ携帯電話で警察を呼ぶからね。」
私は携帯などもっていなかった。
こんなたちの悪いタクシードライバーに出会ったのも初めてだった。
早く空港に着いてくれることを祈るばかりだった。
タクシードライバーはずっとぶつぶつ文句をいいっぱなしだった。私はそれ以上彼に何もいわなかった。
空港に着いたら警察に行こうと思った。
私はバックからこっそりボールペンをとり出していた。
タクシーが空港に着いた。
そしてドライバーは私の荷物をおろした。
途端、後ろの荷物入れのところを閉めずにそのまま運転席にもどった。私にナンバープレートを見せないためだった。私は片手で反射的に後ろの荷物入れを閉めた。
タクシーは猛スピードでアクセルを踏んで前方へ走った。
かろうじてタクシーのナンバーを手のひらに控えることができた。
私は警察にすぐに行こうと思ったが、スペインの警察はこんなことでは何もしないとわかっていた。
また別のタクシーをひろうことにした。
警察に行くだけ時間の無駄というものだ。
次のタクシーの運転手にはちゃんと値段の交渉をしてから乗った。

